大福帳
 

大福帳
--年 --月 --日 (--) --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2006年 10月 30日 (月) 02:33
チェルフィッチュ公式サイトより『三月の5日間』 物語
アメリカがイラクへの空爆を開始した、2003年3月20日前後の東京が舞台。六本木のライブハウスで出会った男女が、そのまま渋谷のラブホテルへ行き、そこで五日間を過ごすことから始まる

○チェルフィッチュの『三月の5日間』については、深く共感している言葉がある。由紀草一先生が御著書『軟弱者の戦争論』をお送りくださって、私が差し上げた感想のお返事の中にあった言葉だ。許可を得て引用する。

今はこう思っております。上に述べたような「平和主義」のあり方やその他の日本の、言語的身体的な状況のために、我々は戦争という現実に関り難くなっている。関ろうとすれば、旧来の反戦運動のドクサに陥らざるを得ない。ただ、逆に、こういう状況に我々のリアルはある。この「戦争にリアルには関れない」リアルをきめ細かく描き、そのはるか先に暗示的に「戦争」を捉えること、これが岡田利規の戦略だったのではないか、と。こう言うと、大したことのない思いつきのように聞こえますが、実際あれくらいちゃんと舞台上に定着してみせた力量は感服に価します。現実に囚われざるを得ない生身の身体や言説が、そのままで現実の先まで進むことは不可能ではないのだ、という勇気ももらえます。


軟弱者の戦争論 憲法九条をとことん考えなおしてみました。 軟弱者の戦争論 憲法九条をとことん考えなおしてみました。
由紀 草一 (2006/08/17)
PHP研究所
この商品の詳細を見る


○『軟弱者の戦争論』
読了してから感想を差し上げるつもりでいたのに、私の要領の悪さも手伝い、先生にお目にかかるかもしれない演劇研究会の前日になってしまう。結局、第2章の途中まで読んだ状態でメールを書くという失礼な行動に出た。

にもかかわらず、ほんとうにびっくりするようなお返事が届く。詳しいことは後で述べるが、自分が書いたことを全部載せると長くなってしまうので一部だけ抜き出し、『軟弱者の戦争論』紹介文としてまとめ直してみた。


読み応えがものすごくあるので、一ページごとに本返し縫いみたいな読み方をしている。
人間の不完全さからきている難題は、歴史上ひんぱんに起こっている。たとえば戦争がそれだ。だから難題のさわりの部分は、便利な言葉ですでに言語化されている。よくある<あれは侵略国だ。けしからん。そんな奴をやっつけるのは正しくてよいことだと思い、またそのために必要だと感じたら、犠牲も厭わず力を行使する。こんなやり方が続くのか…>こういう問いかけをすること自体は、それほど難しくない。

では「絶対平和にいたる方策は、実現可能なものとしてあったのでしょうか?」
『軟弱者の戦争論』第一章では、わずか30数ページの記述にもかかわらず、これが徹底的に検討されている。言葉の一つ一つが、意味をきちんと伝達する機能とユーモアを持っていることにも感銘を受けた。

そして大多数の平凡人が聖者になるという、現実的に不可能なことを除くと最後にあぶりだされてくる非暴力主義の実際。そこには空疎な理念と、現実の暴力がそのまま残っている。これは「言葉のうえだけの問題ではなく、現実の行動のうえでもたえず問題になってくる」。戦後日本がかぶってしまった矛盾が、ここに重なる。

「矛盾は矛盾として、どう対処すべきか、考えるべきときです。弱い人間は何かのごまかしがなければ生きていけないのは確かだとしても、もうすこしマシな方向へいける可能性くらいは信じないと、何かいったりやったりする甲斐が、全部吹き飛んでしまいかねませんから」。次章では1990年代に日本が直面した現実の問題が、じっくりと書かれている。


じつは本のタイトルを目にした時、これはすでに由紀先生の前作『団塊の世代とは何だったのか』で言及されていた、でも簡潔な示唆に止められていたこと-憲法第9条をもって世の中を歩くリスク、戦後何か国際的な決断を迫られる度に日本が重ねてきた欺瞞、ただの都合のいい理屈が「正しさ」に変わるまで、その「正しさ」のためには他を顧みない善意の空恐ろしさ、こどもっぽい正義、本来相対的でしかありえないものを単純な善悪の二項に分別できるという思い込みの愚かさ-が、とことん書かれているに違いない、という予感がした。

由紀先生のお返事によると、まさにこのとおりで、ずっとこういう本を書きたかったのだが、前作では抑制したのだという。とても正確に読んでくださって作者として望外の喜び、という言葉に始まる長いメールと、その後も「一番ありがたかったです」という言葉をいただいた。

『軟弱者の戦争論』は、改憲か護憲かの二択を読者に迫る本ではない。旧来の反戦運動の身体や言語にはつきあえないなあ、かといってその反動のような感情論もどうかなあ、でもそういう状況にとらわれている内に、何か本質的な問題をスルーしてしまっているのではという実感を丁寧にすくい取って、その先の話を論理的に進めてくれる本だと私は考えている。特にこういう実感を持っていた人にとっては、もう「(特定)アジアに平和と和解を」とか、シニカルな怠け者とつきあわずに戦争と平和について考えることができる、という福音になるだろう。

異なる世代の作者によって書かれた、異なるジャンルの『三月の5日間』と『軟弱者の戦争論』。でも二つの著作には、大変似通った感性がある。

『軟弱者の戦争論』の、ユーモアな筆致の多くは先生の地だが、戦争について考える、今までとは異なる思考回路を開くための戦略でもあったと思う。ものすごく面倒くさく厄介で複雑なことを、一生懸命考えるのは変わらない。でもその語り口は、多様であっていいはずだ。

冴えわたるユーモアに懸念があるとすれば、せっかく論理的に書いているのに、面白い読物みたいに見えてしまうことだろうか。しかし、何かかたちとして著すにはどうしても何らかのリスクは負うはずだし、日本独特の「身体的言語的状況」から、都合の悪いことに目をつぶったり、語り口が極端に偏り続けてきてしまったことによる弊害の方が何倍も大きい気がする。もしもユーモア=ふざけのように一段低く決めつける心性があるとしたら、それこそ二大別思考のもっともダメな例の一つだと思う。 (2006.10)

2007.02 追記
有機物に対する素朴な信仰のようなもの、簡単に言うと「みな殺し文化」とは異なる心性を、日本人はゆる~く持ってきたのではないか。もちろん織田信長という異端も存在したが…。「日本独特の身体的言語的状況」には、こういう事情も若干関係しているかもしれない。

戦争について知っていようがいまいが、自分なりの実感からそれを捉えようとした意図を感じた作品として、『三月の5日間』(初演2004年2月)とともに、鮮やかに思い出す舞台がある。『THE WINDS OF GOD』(初演1988年4月)だ。こういうことについて、眉尻を上げず口角泡を飛ばさず20代の若者が語ろうとすれば、ほとんど変態を眺めるような目で見られただろう80年代の日本。去年の10月、久しぶりに再演を観た。この作品についてはゆっくり時間をかけてまとめたい。

関連記事
三月の5日間メモ
チェルフィッチュ主宰 岡田利規作・演出『エンジョイ』の紹介
『エンジョイ』の前に
エンジョイ(4幕)/RIDING GIANTS
スポンサーサイト
copyright (C) 大福帳 all rights reserved.
designed by polepole...

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。