大福帳
 

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2007年 03月 22日 (木) 23:32
『ドリームガールズ』を観に行ったら、予告編に突然二人の監督が出てきて
 「スティーブン・スピルバーグです」
 「マイケル・ベイです」

スクリーン下方には
 『宇宙戦争』スティーブン・スピルバーグ
 『アルマゲドン』マイケル・ベイ  の文字が。

えええっ。
これが代表作でいいのでしょうか。なぜってどっちも相当なドボン映画では…。デレク・ジャーマンの『ブルー』も、一つだけ彼の代表作をあげてくれと言われた場合、推すには迷う作品です。

それで映画漫才でも始まるのかと思ったら、二人がタッグを組んだ新作『トランスフォーマー』の宣伝でした。
いかに新しい試みかを力説しつつ、ちらちらと映像を見せるのですが、どうにも観たことがあるような気がします。両方の映画のカットシーンを繋いだ、と言われれば納得できそうです。私だけでなく友人も同意見でした。
それで最後に声を揃えて「ゴーキターイクーダサーイ」。
これはこれで面白かったのですが、せめてもう少し気の利いたウソで、期待を煽ってほしかったです。

『ドリームガールズ』のメモはこちらです

思えば『父親たちの星条旗』の米兵上陸シーンも、『プライベート・ライアン』の冒頭で使わなかったシーンを持ってきたのかという既視感にとらわれました。

上陸時の映像の作り方が、そっくりに感じられたのです。
まずとてもexpendableなやり方で、兵士たちが海岸に上がります。これは、一つ一つ肉弾戦で厄介な場所を潰していく、という当時の戦術なのかもしれないです。それを姿の見えない敵が迎撃する。どこから撃ってくるのかわからない怖さは『父親たちの星条旗』の方が徹底していましたが、たとえば高射砲がドーンと打たれたら、舞い上がった砂だけを描くというピンポイントな描写が似ているなあと。広範囲で戦いを撮っていないのは、お金がかかるからなのでしょうか。

この映画は『硫黄島からの手紙』と対をなす作品だそうですが、私はイーストウッド監督の『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』に続き、影がどう扱われているかに注目して観ました。
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『ミスティック・リバー』でショーン・ペンが惨殺された娘の遺体安置所に向かう時、彼は真逆光で影のように撮られていて、人のかたちをした黒い穴になります。その後もずっと彼の生活は続くのですが、話の展開を追うにつれ、結局、一度真っ暗になったこの場所には、以降どんなことがあろうと、もう二度と何も生えないという絶望をじりじり感じました。「イーストウッドの絶望的な厭世観を感じる」(ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判<2>)という意見に賛成します。

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『ミリオンダラー・ベイビー』の画面はやたら暗く、影の使い方はより技巧的になっています。しかも話はボクシングで、シャドウという言葉を連想しやすかったです。
シャドウ・ボクシングは、相手の動きを仮想して行う練習です。相手の実体はそこにないですが、反応する側のイマジネーションによってふくらみます。姿を消した父(イーストウッド扮するコーチ)の半生を記した手紙を読む娘が、誠実に手紙を書く個人(イマジネーションをふくらませる手助けとなる)の助力で、すごくいいシャドウ・ボクシング(のようなこと)をする。この映画についてはそういう見方をしています。

このように影というのは自ら語らないし、結局のところ正確なことは何一つわからないのですが、わからないところが人の想像を刺激したり、実体を漫然と眺めるより鮮やかに感じさせたりします。

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「摺鉢山に上る星条旗」の写真は真っ暗ではないですが、顔が陰になったり後ろ姿だったりして、一部の兵士たちの姿はある意味、誰が誰だか判然としない影といえます(だから、尻を向けて写っていた顔のわからない兵士の名が漏れて、違う兵士の名前を伝令が上層部に伝えてしまう。ちなみに両方ともすでに戦死者です。それから、その場にいたけど「死んだ奴の名前を出しておけ」と伝令に言った、インディアンの血をひくヘイズ。最終的には、存命の人間の方が都合がいいという理由で、「国債を買おうイベント」にかり出される)。

つまりその時の都合や周りの思い違いで、影はいかようにも騙られます。これが『父親たちの星条旗』、というわけで影に注目して観たのです。

『父親たちの星条旗』にも、真逆光で人物を捉えた映像がありました。たしか、兵士が仲間のむごい姿を見る場面です。ただ三部作の中ではもっとも残念な出来だった気がします。

兵士3人が、戦地からアメリカに呼び戻されて以降は出来事の点描が続くのですが、これがめちゃくちゃ雑というか不誠実で、人物が粗末な書き割りのように出てきます。全国行脚中の列車内の仮眠シーンなど、洗練される前のシベ超より、あらゆる意味でチープでした。

安いだけならいいですが、映画に出てきた、はりぼての摺鉢山に3人が旗を立てる「国債を買おうイベント」(実際に、シカゴのソルジャー・フィールドで行われたらしいです。『父親たちの星条旗』原作には観客5万人という記述があります)を企画した人間のメンタリティと同質のいやなものを、なぜかこの映画にそこはかとなく感じました。もう少し書くと、この性質のよくない感じは、今回製作で関わったスピルバーグの『シンドラーのリスト』を観て思ったことと似ています。

でも行脚中の3人を迎えるヤンキースの選手たちの表情と、アル中への一途をたどるヘイズの演技は説得力がありました。俺がヒーローなんてありえないという実感と、しかし自分にのしてくる大きな物語に逆らえない現状があって彼がフガフガしているところに、それまで多分雲の上の存在だった有名なスター選手たちがズラっと並んで、親しみのこもった目で自分を見つめながら拍手を送るのです。

賢くて敏感な個人が、事実も現場の実感も無視した大茶番であることをわかっていながら、ある一つの物語に飲み込まれていく。その物語をこしらえたのは政府当局ですが、市民はそれを盛り上げました。悪意ではなくほんとに善意から。

ということで、まったく善良で罪のない市民という考え方(その程度に良識的な見方)に立って、戦争という複雑で不条理な状況に置かれた人間全体を、簡単に二大別してしまうのはまずいんじゃないだろうか、という視点は入っていると思います。
あと『プライベート・ライアン』から続く、いい役に甘んじないバリー・ペッパーもよかったです。それから「摺鉢山にのぼる星条旗」の写真にピュリッツァー賞を与えたのはまずかったんではないか、というぼんやりした考えが、映画を観て確かなものになりました。

しかし…

ヒーローは人の都合でつくられる
過去の人間の行為を、簡単に二大別して何かジャッジできるなんていう現代の思い込みはものすごく愚かである
自分のやることに意義などとうてい見出せなくなってくる過酷な現場で、なんとか意義を見つけようとする人間のこと
人は、誰かとの関係性の中でいきていると実感できないととてもつらい

これらを描くことは、演劇はもっときめ細かくはるかに誠実に、とっくの昔にやっています(映画にも、私が無知なだけでたくさんあると思います)。なんというか、演劇を観続けてきてよかったと再確認するために映画館に行ったようなものでした。そんなことをするつもりはまるでなかったのですが…。
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