大福帳
 

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2006年 05月 01日 (月) 00:14
パリ・オペラ座来日公演『白鳥の湖』の補足記事
ピナ・バウシュ/オルフェオとエウリディーチェ
(2005.06パリ・オペラ座 ガルニエ)
703.jpg

「マリ=アニエス・ジロを観ると、『あさりちゃん』に出てきた大きなバレリーナを思い出す」という知人がいる。ジロは背丈だけならルテステュとそんなに変わらないという話も聞く。やはり上半身を逆三角にかたちづくるあの筋肉が、ジロ独特の大きさを感じさせるのだろうか。
今回の『白鳥の湖』では、急な降板で踊りを観ることができなかったので、さみしく思い出の中のジロをたどってみよう。

私が舞台で観た、すべてのジロは…『アパルトマン』、『ジュエルズ』ルビー、『ラ・バヤデール』ガムザッティ、『オルフェオとエウリディーチェ』エウリディーチェ、それから『白鳥の湖』プロローグでの後ろ姿。
その中でのベスト・ジロは『ジュエルズ』のルビーを踊った時だ。幕が上がるとジロが中央にいて、横一列なのにV字に並んで見える迫力に少し感動した。そして周りにいる男性のダンサーが飛んでいきそうなダイナミックなジロの回転と、「はっしー、はっしー」と擬音をつけたくなる身体の切れのよさ。厳か一点張りの踊りではなく、この曲のジャズっぽい部分の面白さ、アメリカバレエ文化のエッセンスもよく出ていたと思う。

※バランシン振付『ジュエルズ』は3部からなり、宝石のイメージの3種の音楽を選んで振付けている(エメラルド:フォーレ作曲「ペアレスとメリザンド」/「シャイロック」 ルビー:ストラヴィンスキー作曲「ピアノとオーケストラのための奇想曲」 ダイヤモンド:チャイコフスキー作曲「交響曲第3番 ニ長調」)。4つの音楽を、3本の目に見える太い柱にしたみたいな作品。言葉の制約から解放された世界の広がりが、振付につまっている。

そのほかのジロの思い出…去年ガルニエで観た『オルフェオとエウリディーチェ』は、グルックのオペラを使った作品だ。タイトルにOpéra danséと書かれているとおり、次の3役はオペラ歌手とダンサーが2人1組で登場する。

L'amour
ORPHEE
chanté par Charlotte Hellekant
dansé par Yann Bridard

La mort
EURYDICH
chanté par Jael Azzaretti
dansé par Marie-Agnés Gillot

La jeunesse
AMOUR
chanté par Aleksandra Zamojska
dansé par Miteki Kudo
舞台の上には身体で表現するコロス(つまり群舞)がいて、合唱はオーケストラピットに入っている。
全体は喪失・暴力・愛・死の4景に分かれる。第1景のエウリディーチェは柱の上方からじっと舞台を見下ろしていた。オルフェオも舞台の脇からコロスを見つめる。歌詞にあわせた「当て振り」は用いられない。歌詞が劇を叙述してくれるため、おもだった登場人物は、マイムなどで物語を説明する必要もない。舞台上にいるジロやブリダールは主人公でありながら、物語を進めていく役割をうまく外されている。
群舞は古典の構築的な形とは違い、水辺に揺れる葦を思い出す動きだった。ピナ・バウシュの作品でたまに観る、身をよじり腕をゆらっと出して捩じる振付がたくさん出てくる。これを観ると、いつもは床屋のグルグルしたオブジェをうっかり連想するのだが、この時は深い悲しみの表現として感じられた。
パリ・オペラ座はコンテンポラリーだけでなくクラシック・バレエもレパートリーに持っている。ヌレエフが精力的に振付していた頃から見ると、古典作品への取り組みに少し勢いがなくなって来た気がするが、それでもダンサーの身体には、バレエという共通の秩序がある。その身体でいっせいに踊る。だから場ごとの詩的な情念が、きれいに歪みなく反響するのだと思う。ヴッパタール舞踊団の、出自もさまざま凸凹オフロードな身体の皆さんで踊ったらどうなるだろう。まったく想像がつかないのだが、過去にヴッパタール舞踊団はガルニエでこの作品を上演したらしい。

その評→尼ヶ崎彬「悲劇の舞踊」 この時の公演と今回は、展開や振付に大きな変更はなかったようだ(以下4景の「死」まで、「悲劇の舞踊」から引用)。

ピナ・バウシュはこの物語を四つの景に分け「哀悼」「暴力」「平和」「死」と名付けた。第一幕は初めの三景から成る。第一景はエウリディーケの墓前である。オルフェウスが妻の死を哀悼している。コロスもまた悲しみを歌い、踊る。この踊りが素晴らしい。コロスたちは螺旋に身をよじり、腕は捩じれて身に絡む。悲嘆の表現としてこれほど深く強いものを私は知らない(この身を揉む動きはピナの作品にしばしば現れるものだが、マ リー・ウィグマンを連想する人もいるかもしれない)。やがて愛の神アモールが現れて、オルフェウスに冥府から妻を連れ戻すことを許す。ただし地上に出るまで決して妻の顔を見ないという条件で。第二景は地獄である。屠殺者の風体をした三人の男性ダンサーが演ずる三頭の門衛は暴力のシンボルである。その彼らもオルフェウスのために冥府の門を開く。第三景は花咲く浄土である。エウリディーケは精霊たちと平和に暮らしている。そこへオルフェウスが現れ、二人は地上へと旅立つ。休憩。第二幕は地獄の道行である。第一幕のロバート・ウィルソンのように美しいセットは一掃され、三面を布壁に囲まれた抽象的な空間が広がる。二人の視線の関係のほか舞台には何もない。おそらくピナはこれをやりたかったに違いない。


オルフェオは毒蛇にかまれて死んだ妻エウリディーチェを取り戻しに、冥界へ赴く。黄泉の国を出るまでけっして振り返ってはいかんという条件つきで妻を返されるが、あと少しで地上という時にいろいろあってオルフェオは振り返る。エウリディーチェすぐ死ぬ。原作のオペラは後でハッピーエンドになるが、それはカットして舞台はここで終わる。
赤いドレスをまとったエウリディーチェのジロは、最後の「死」では両腕を広げて何度も旋回し、やがて中央で静謐に舞った。歌と身体は分離することなく鋭い感覚で結びつく。どちらか一つの手法による表現を超えた、大きなイメージを見せることにやすやすと成功していて驚く。これまで日本の現代演劇で、上演する場所の持つ力を緻密に計算し、「人間文楽」といわれる2人1役の方法を使って古典悲劇を上演したものの、あまりうまくいかなかった実験を数多く見てきたからだ。著しい成功を収めた例は、ほんの少ししか知らない。

さっき引用したヴッパタール舞踊団の公演評は、興味深いことに真逆の意見で締め括られている。「芸術の改革がしばしばギリシアへの回帰という形をとるのは偶然ではない」と、ノヴェール、グラハムらによって試みられてきた「ギリシャ悲劇の舞踊化」を踏まえた上で、次のように述べている。

問題はこの幕が悲劇として十分に成功していないということである。振付が悪いわけではない。踊り手が下手なわけでもない。多分現代の肉体によって神話的悲劇を演じるという計画そのものに無理があるのだ。神話的悲劇は偉大であるけれども、現代の生活のなかではリアリティを持たない。現代の肉体は大袈裟な神話にはなじまない。先に述べた第二の問題はついに解決できなかったのである。


オペラ座ガルニエ宮の建物は、ミューズが集うパルナス山として構想されているという(『オペラ座 黄金時代の幻影劇場』原研二)。建物を横断面図で観てみると、上から天界(てっぺんの装飾。太陽神アポロン)・地上界(舞台)・冥界(地下中央の水盤。冥界の住人ピュティアが祀られている)と捉えることができるらしい。建物の中に、すでに「現代の生活のなかではリアリティを持たない」神話的な時空間が抱え込まれているようだ。オペラ座で『オルフェオとエウリディーチェ』を上演するということは、物語にお似合いの場でやるというより、現代の肉体をガルニエの胎内にもぐり込ませること、観ている者もその奥深くに誘われるということなのかもしれない。

すべてのレパートリーにおいて同じことが言えるとは思わないが、少なくとも『オルフェオとエウリディーチェ』にとってガルニエは、宗教的といってもいいような絶対性を持つ劇場だと思う。そこが慣れ親しんだ自分たちの場所である(オペラ座バレエ団)/そうではなく客としてやって来て上演する(ヴッパタール舞踊団)という違い。私はヴッパタール舞踊団の『オルフェオとエウリディーチェ』を観ていないので想像の域を出ないが、尼ヶ崎氏の評を参考にすれば、上演されたガルニエ宮と、そこにいつもいる身体との関係が、公演の結果に大きく関わった気がする。
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